イザヤ63:7−14/Ⅱテモテ2:8−13/ルカ9:18−27/詩編107:1−16
「次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」」(ルカ9:22)
今日お読みいただいた福音書には「ペトロ、信仰を言い表す」という小見出しと「イエス、死と復活を予告する」という小見出しが付いています。
小見出しは聖書本文ではありません。各国にある聖書協会がいわば勝手に付けたものです。日本語の聖書をつくっている日本聖書協会でも、いわゆる口語訳聖書までは小見出しはありませんでした。新共同訳になって初めて小見出しが付けられたのです。「本文の内容区分ごとの概括的な理解を助ける趣旨から」付けられたと聖書の「凡例」の中に書かれています。だから、聖書聖典の本文ではなくて便宜的に付けられたものだということでしょう。ただ、概括的な理解を助けるという意味では、小見出しのあとの纏まりの中心が何であるかの見当は付けやすくなりました。
ということで二つの小見出しの付いた箇所を読んでいただいたわけですが、これは全く同じ小見出しが付いてマルコ版(8章)とマタイ版(16章)があります。並び方、つまり物語の順序も全く同じです。ところが、内容にはやはり福音書が書かれた地域と年代と課題、ねらいが異なっているということが顕著に表れています。
マルコは弟子たちがなんにも理解していないことが前提ですので、ペトロが「あなたは、メシアです。」(マルコ8:29)と言うと「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(同30)のですが、そもそも弟子たちはメシアとは何であるかをちゃんとは理解していないわけです。だからイエスが受難を予告すると「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(同32)りするわけです。すると「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(同33)。ペトロひとりが分かっていないのではない、弟子たちすべてを見ながらイエスが叱責した。みんなわかっていなかった。いや、ひょっとしたらユダヤ教の教えるメシアなら知っていたかも知れないし、或いは民衆が期待するメシア像を彼らも抱いていたらしいフシがあります。しかし、イエスが言うメシアはそうではなかったし、イエスがまさにそのメシアになる覚悟を持っていることも知らないのです。
マタイはマルコの物語をそのままなぞりながら、しかし既にある程度に成長したキリスト教会という体制を維持発展させる必要があったわけで、初代の弟子たちがイエスを理解していないとする訳にはいかなかったのでしょう。だから「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」(マタイ16:16)ことを絶賛して「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(同18)、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(同19)と、教皇制度への権威付けを行います。しかし問題は、イエスの受難予告を弟子たちは受け入れられないわけですから「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(同22)となる。マルコではペトロの言葉は記されていないのに、マタイはちゃんと書いています。すると「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(同23)と。マルコは弟子たちみんなを叱責しましたが、マタイはペトロひとりに叱責が向けられます。さっきは天国の鍵を授けられたのにもかかわらず、「あなたはわたしの邪魔をする者」とまで言われてしまいました。教会の職制という制度が整っていく中で、それを担う人間はしかし完全にはなり得ないのだということが示されているのだと思います。残念ながら歴史上、教会は教会の完全性や教皇の完全性を唱え、それによって民衆を圧迫し、或いは戦争まで引き起こしてきた。だからその失敗を繰り返さないためにも、この箇所をしっかり読み心に刻む必要があります。初代教皇ペトロも、間違う。イエスの邪魔をする者になってしまうことだって充分にあり得るのです。
ルカは、イエスがどういう人であるかをよく知った上で、そして自分には畏れ多いのだと知った上で、しかしイエスの招きを受け入れて従ってゆく弟子たちの姿が前提でした。だから、イエスが受難を予告しても、少なくとも誰も動揺しないのです。ゆえにイエスによる叱責もない。イエスの教えを受け入れて従ってゆく彼らは単なる弟子ではなく、既に使徒なのです。だから、この受難予告は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22)ことを自分の身に引き受けた上で「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(同23)という、弟子として、使徒としての覚悟をここで今一度求められた物語になっているわけです。イエスが苦しみを受けることは既定の事実、そして事実「三日目に復活」したことの証人=使徒として、「日々、自分の十字架を背負」わなければならないということです。
2000年の教会の歴史の一番先頭に立つ一人のキリスト者として、わたしたちはイエスの生き様と死に様を既に教えられています。そして教えられ伝えられたことをもとにして、わたし自身のイエス像をおそらくひとりひとりが描いています。それと同時にわたしたちはイエスがそうであったように「苦しみを受け」「排斥され」あるいは「殺され」るという日常をわが身に引き受ける覚悟を今また求められているのです。いや、礼拝に集う度に、その覚悟が問われているのかも知れません。そしてそれが不十分であった、いや全く出来なかったという懺悔と悔い改めとをもって主の前に進み出ているのです。その繰り返しを歩むこと、それこそが「日々、自分の十字架を背負」うことなのかもしれないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。その力も素質もないにもかかわらず、あなたはわたしを選び、「従いなさい」と声をかけてくださいました。その声に従いながらも、常に不十分で懺悔と悔い改めを繰り返すしかありません。でも神さま、あなたはそれを続けることこそわたしが背負うべき十字架であることに気づかせてくださいました。あなたの許しを請うと共に、あなたの導きと支えとを心から希い、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。